はじめての四国お遍路巡拝 第一番霊山寺 追憶1. 昭和4年
四国お遍路とっかかり~紀伊田辺港より和歌山経由淡路島、撫養港 四国路
お参り中、四国地は全部歩いて「お精進」で重い荷物を背負ってお参りし、遍路同士の礼儀があり、行違う時は、お互いに「御苦労さん」、後から追越す時は、「お先に」と礼儀をつくしお宿に着くと先客の同行に「よろしくお願いします」と必ず挨拶をしたものです。
又遍路道の到る所にお餅・おいも・おみかん・お菓子等々一皿二銭、五銭と書いて、箱の中にあるのをお金を置いて陽気に食べ乍ら歩くのが、何とも言へぬ遍路のあこがれになるのです。
又霊場に着いて、やれやれと本堂の前で重い荷物を降ろして腰をかけ、おつとめするのが楽しみでした。
私の故郷は紀伊半島の中間で白浜温泉の入口、田辺市の山間部になり、浄土宗の多い町ですが、又大変お大師さまに信仰の厚い所です。
私の両親は昔医師に手を離された難病が、お大師さまに祈願して両親共全快させていただきました。この事を子供の頃からよく聞かされておりました。
私が二十一才の時、両肺が一度に肺浸潤におかされて医師よりむつかしく云われたのですが、父が四国霊場に祈願して、お蔭様で全快させていただき、二十二才の時に、父に連れられて始めてお礼参りをさせていただいたのです。
お遍路一泊目は高野山一乗院、二泊目は淡路島 福良
時は昭和四年(五十一年前)三月二十一日の朝早く紀州田辺港(白浜温泉の入口)を出発。十二時和歌山港着、橋本駅迄汽車に乗り十五時着、それより徒歩で神谷を経て、高野山一乗院に泊まりました。此の道中極楽橋より神谷の町を通る時は六時過ぎでくたくたに疲れて、丁度嫌がる犬を引っぱられるような気がしました。一乗院(八時着)泊り賃は八十銭で、田舎者の日頃の生活からみると、とても御馳走でした。
朝起きると一面霧で、樋のない屋根から雨の様にボタボタ雫が落ちているのが大変珍らしく思いました。八時より小僧さんが奥の院まで案内して下さり立派な大名の御墓、無数にある大木と奥の院様の勿体ないのに忘れることは出来ません。橋本まで歩き、汽車で和歌山市に出て、加太の淡島神社にお参りして淡路島に渡り福良で一泊、大勢の遍路で大変な賑いです。「半泊り」と言って十二時宿を出て撫養行きの船に乗船するのですが、殆んどの人は眠らずに、ワイワイ雑談で賑いました。
二十才位の青年が、「僕の父は十九回廻って納経帳は立派で《どしん》と重たいです」と自慢していました。
最近聞いた話ですが、八十八ヶ所一回廻る毎に、一匁重くなるとの事で、私もお蔭様で、六十五回御参りさせて頂きましたが、少し重くなったと思います。
丁度四時半撫養港に着き暗い撫養の町を始めて歩く四国地は何となく有難く嬉しく思いました。
少し歩くと、ガラガラと戸を開けて、「お遍路さん、お接待上げます」「ハイ」と立止って紙一折いただきました。父から納礼を上げなさいといわれ町を通り越すまで約十分位で十五ヶ所程で、紙、おさい銭、お餅、お米等々をいただき、納礼一枚ですまないような気がしました。
第一番霊山寺の奥の院東林院に参拝、五番門前遍路宿に泊まる
一里半歩いて、第一番霊山寺の奥の院東林院に参拝又お接待を頂き、あこがれの一番霊山寺へ八時過ぎにお参りでき、始めての礼所で大変嬉しく、勿体なく思いました。又沢山のお接待をいただき重いので、嬉しいやらつらいやらで、父の言うのには、御彼岸で、今日は特に多いとの事でした。御飯、うどんは持てないので食べた上に食べ、お腹が一パイになりました。お餅、お米等も沢山いただきました。
五時頃五番の門前で四国地で始めて遍路宿に泊りました。夕食の前に納経帳をお祭りして御飯と御茶をお供し、父と般若心経、光明真言をお唱へしてから夕食を頂きました。
<<脚注>>
この『巡拝の思い出 徒然』は大阪楽心会創立者である田渕義雄初代会長が初めてのお遍路を高野山から始められた際の遍路巡拝の記録です。本文が載せられた昭和56年1月1日 『安楽道』(四国霊場第6番札所安楽寺機関紙)新年号特集にはご畠田秀峰住職より以下の ようにご紹介されています。
「51年前(昭和4年)の四国巡拝の様子を田渕義雄氏に書いていただきました。大阪楽心会は八十八ヶ所の各礼所の本堂、大師堂等に朱色のローソク立てを寄贈された団体で一度お詣りしたお方なら、このローソク立てを思いおこすことができる人が多いと思います・・」
文中51年前とあるのは、昭和56年起点であることをお断りしておきます。